16歳、9月




 いつかは書こうと思っていた。
 16歳、9月。
 高校1年生の2学期が始まってすぐのとき。
 忘れられない、忘れたくない過去がある。

 オレは死にかけた。
 病状は過換気症候群というもので、不整脈も現れていたと聞いた。
 この病気は本当のところ、命に別状はないらしい。
 だが、体験者の多くは死にかけたという実感を持つという。
 実際、オレも自分はあのとき死んでいたかもしれないという実感があるし、それを事実だと思っている。
 それは今まで生きてきた21年間と10ヶ月の中で最大の衝撃として、記憶に刻まれている。

 「真剣10代しゃべり場」という番組で、本音を言うことはいいことか、悪いことかということが議論されていて、16歳のあの日を思い出した。
 一人の女の子が、
 「自分はどんなときでも本音を言う。
  それを正しいと思うし、相手のためを思ってである」
 と語っていた。
 それに対し、嘘もときには必要だし、本音によって傷つけることやよくないこともある、と反論されていた。

 「じゃあ、分かりやすい話で、ガン患者がいるとするね。
  その人は末期で、99%助からない。
  でも、嘘をつくことでその人が生きる意思を持ち、1%の確率でも助かるかもしれない。
  君は、そんな場合でも告知をすべきだと思う?」
 と聞かれていた。
 その女の子の回答は、
 「命に関わることだから、本音を言えばいいってものではないかもしれないけど、自分だったら本当のことを言いたい。
  逆の立場だったら、自分は言ってほしいし、嘘をついても結局はよくない」
 というものだった。
 周りから、場合によるんじゃないか、自分だったら言ってほしいって言うけど、それは他の人に必ずしも当てはまることじゃない、などと反論され、
 「場合によるというのなら、話せば分かる。
  その人が言ってほしくないと分かったら言わない。
  でも、自分は本当のことを言うことはいいことだと思う。
  本当に相手のためを想うのだったら、やっぱり本当のことを言うのだと思う」
 と語っていた。

 ちなみに、この女の子は介護を志していて、現在もその専門学校に通っている。

 これを聞いていて、気分が悪くなった。
 オレだったらこの女の子に介護をされたくないと思った。
 その理由を踏まえ、オレの体験談を書きたい。

 あの頃のオレは、高校へと進学し、新しい環境が楽しくてしょうがなかった。
 中学のオレを知る人物からすれば変わったと思われるんじゃないかというぐらい、ポジティブにアクティブに色んなことをがんばっていた。
 今のオレを知る人からは想像つかないかもしれないが、中学までのオレは暗かった。
 中学のオレを知る人はどう言うか知らないが、オレ自身はそう思っている。
 そんな自分が嫌だったし、変わりたいと思っていた。
 高校へ進学すると同時に、だんだんとなりたい自分を素直に表現するようになっていった。

 部活、勉強、友人関係、学校の催し、あと恋。
 恋話は、今は置いといて、とにかく色んなことをがんばっていた。

 その無理がたたったのだろうか、中学のときからの負担も関係しているのか、ある日オレは倒れた。
 その頃、文化祭のクラスの出し物について準備が進んでいて、オレは広報班のリーダーだった。
 別にクラスのトップではないが、オレなりにがんばっていた。
 パンフレットのデザインを考え、その日は徹夜した。
 前日もあまり寝ていなかった。
 体調が優れずに遅刻したが、自分の考えたデザインを持って登校した。
 授業を受けていたが、自分の体調が普通でなかったため、早退した。
 学校にいるとき、かつてない不安が内在していた。
 それは体調のためだが、今までにない種類のものであり、ふらふらしながら帰った。

 誰もいない家に着き、リビングで倒れた。
 ソファーとかじゃなくて、床に。
 あれは気絶だと思うのだが、それを母親が見つけ、ベッドに行って休んだ。
 しかし、体調は全然回復せず、喘息のような症状が現れ始め、通常の診療時間が終わった病院へ行った。

 確かに喘息の症状もあって息苦しかったが、今までとは違うものだった。
 なんの病気か分からなかった。
 吸入をしても治まらず、点滴を受けた。
 点滴を受けても治らない場合は、今までの経験だと間違いなく入院になるわけだが、そのときのオレは学校へ行きたかったので、意地でも入院するわけにはいかないと思っていた。

 点滴を受けてだいぶよくなったが、実はまだ苦しかった。
 点滴が終わる頃に医者が来て様子を聞かれ、
 「大丈夫です。
  もうすっかり元気になりました」
 と嘘をついた。
 このことは両親にも言った記憶がない。

 母親が運転する帰りの車で、オレ自身が普通じゃないことは当然分かっていたし、母親の様子もいつもと違うなと思った。
 「何か隠してることあるでしょ?」
 と聞くと、怪訝な顔をされた。
 そのときのオレの性格や言動は、普段からは考えられないものだったと聞いている。
 オレ自身も自覚していた。

 家へ着き、母親が妹にオレに聞こえないように何かを話していた。
 妹の顔色が変わり、とんでもないことを聞かれた。

 「お兄ちゃん、死にそうなの?」

 薄々気づいてはいたが、はっきり言われたことにより、とても動揺した。
 そのときのオレのリアクションはよく覚えていないが、多分、笑いながら、
 「そんなことないよー」
 って感じでごまかそうとしたはず。
 心臓はばくばく鳴っていた。

 翌日の朝、またも息苦しくなり、病院へ行った。
 吸入をしても全く回復しないどころか、意識が半分飛んだ。
 吸入が終わって立ち上がると、自分はどうなってしまうんだというとてつもない不安と共に、呼吸ができなくなった。
 泣きながらしゃっくりを繰り返し、気絶した。

 体が動かなくなり、何もしゃべれなかったが、意識はあり、目は見えていた。
 担架で処置室へ運ばれ、血圧を計られ、注射を何本か打たれた。
 注射を打たれたのに痛みがなかった。
 担架から手がぶらーんとなり、看護婦さんが持ち上げて体の横に置いたことを覚えている。

 あぁ、本当に死ぬのかな、と思った。
 死にたくない、死にたくないと本気で思った。
 別に走馬灯はなかった。

 意識を取り戻し、感覚が戻ってきた。
 徐々に体が動くようになり、周りに安堵が広がったのが分かった。
 看護婦さんは目が赤かった。
 親父があれほどまで動揺したのを見たのは初めてだった。
 涙が止まらなかった。

 それから体力と気力を使い果たし、学校へ行けない日々が続いたが、なんとか復帰できた。
 学校へ行き始めたときは、歩くだけで辛かったし、部活はもっての他、体育の授業も出られなかった。
 ただでさえ遅れていて理解できない授業は受けるだけで精一杯で、頭には入ってこなかった。
 家に帰ったらくたくたで、飯と風呂以外はひらすら眠った。
 勉強どころか、遊ぶ余裕すらないときがあった。

 部活に復帰するのには、何ヶ月かかったんだろう。
 部活もある日突然できるようになったわけではなく、段階的によくなっていった。
 だから、前日はできても、次の日は同じようにできない日があった。
 まともに運動できるようになっても、完全復活とは程遠く、1年たっても全快しなかった。
 高校1年の1学期の4km走のタイムは、3年間で1番よいものとなった。
 運動をしても、強くなっているという感触はなかった。

 勉学面でのダメージが1番大きく、致命的となった。
 ただでさえ1ヶ月近く遅れてしまったのに、その後もまともに勉強できる状態ではなかったためだ。
 高校2年生のときは、異様に毎日の睡眠時間が長かった。
 周りからしたら言い訳だろうが、テスト期間中も眠くて勉強にならなかった。

 まぁ、失ったものも大きかったわけだが、この体験によって得られたものはそれ以上に大きかった。
 大きな影響を与えた。

 「真剣10代しゃべり場」の「本音を言うべきか」ということに話を戻すと、常に本音がいい結果をもたらすということはないと、強く思う。
 さっきのガン患者の告知に、オレの状況は似ていると思う。
 あのとき、不安で不安でしょうがなかった。
 自分が普通でないことは、誰に言われなくても確実に気づいていた。
 命の危機は、誰に言わなくとも予期していた。
 それを聞きたいという気持ち、聞きたくないという気持ちが混在していた。
 母親に、隠していることはないか、と聞いたわけだが、「オレは死ぬかもしれないのか?」とは聞けなかった。
 それを聞く勇気はなかった。
 実際に、それは意思とは関係なしに言われてしまったわけだが。

 自分が死ぬかもしれないと聞いて、分かった。
 聞きたくなかったんだ、と。
 その後は、以前とは別次元の不安に襲われた。
 疑問が確信に変わった。
 「死ぬかもしれない」ということが「あるかもしれない」から、実際に死ぬかもしれないと思った。
 この差は、微妙なニュアンスの違いのようかもしれないが、大きく異なる。

 介護を志すあの女の子は、自分が正しいと思っているだろう。
 話を聞いていて感じた。
 周りに何を言われようと、絶対に認めなかった。
 本音を言うことは、常に正しいことだ、と。

 本人はそれが相手のためであると言っていたが、周りからは自己満足、自己中と言われていた。
 結局は、本音を言って自分が楽になりたいだけなんじゃないの、とも。
 オレもそれに近い意見だ。

 相手のためと言って、結局は自分の価値観を押しつけているに過ぎないと思う。
 相手のことは確かに考えているのだろうが、実際に相手のためになっているかは別だ。

 ケース・バイ・ケースは話せば分かると言っていた。
 だから、相手が聞きたくないのに、ガン患者に告知をすることはない、と。
 それは命に関わることだからであって、普段はどんな状況でも嘘はつかないというのがスタンスのようだが。

 話せば分かる。
 これには間違っても同意できない。
 もちろん、話して理解が深まることは多いが、当てはまらない場合も確実にある。
 人間の本音なんて、自他共に分かっていないことが多々ある。
 オレだって、あの状況で真実を聞きたいという気持ちもあったわけだから。
 実際に聞いて、本当は聞きたくなかった、認めたくなかったと分かった。

 「告知してほしいかどうか、どうやって確かめるの?」
 と聞かれ、
 「もしガンだったら、と聞いてみる」
 と答えていて、呆れた。
 もちろん、周りからも激しく突っ込まれていた。

 自分が命の危機に瀕している人というのは、例え周りが嘘をついていようと、自分の異変には気づいているのがほとんどだ。
 入院しているガン患者というのは、抗癌剤による副作用は凄いものがあると聞いた。
 そんな人に、
 「もしガンだったら」
 と聞くのは、
 「あなたはガンだけど、どうしますか?」
 と言うのと同じだ。
 それで気づかない患者はいないんじゃないだろうか。

 本人でさえはっきりとラインを決められないことが多々あるのに、なんで他人が話せば分かるなんて言い切れる?
 それに、出てきた言葉を全て信用するのか?
 告知された後の、
 「言ってくれてありがとう」
 は必ず本音なのか?

 ディベートのMotionで、
 「医者はガン患者に本当の病状を告知すべきだ」
 というものがある。
 これで、どんな状況においても必ず告知すべきだと言うのだったら、強く反発する。
 ちなみに、現状では家族と医者と患者本人が同意した場合は、告知をすることが認められている。

 自分だったら言ってほしいから、と言っていた。
 しかし、周りにも必ず当てはまるなんて思わないでほしい。
 自分がやられて嫌なことはしない方がいいだろうが、自分がやられて嬉しいことは、他人にも嬉しいとは限らない。

 本音を言うことを否定しているわけではない。
 基本的に嘘をつくことは好きじゃないし、オレも普段の多くの場合では正直に話している。

 常に本音を言えばいいってもんじゃない。
 かといって、嘘をつくことが正しいかは分からないし、嘘によって傷つくことや、よくないこともあるだろう。

 いいたいことは、本音が正しい、嘘が正しいと決めつけるな、ということ。
 ガン患者に常に告知することは反対だが、告知によって救われる人もいるだろう。
 自分の余命を知ることにより、余生をどうするか前向きに考えられる人もいるはずだ。
 だが、自分が死ぬことが分かってしまうことにより、自暴自棄になったり、生きる気力を失う人もいる。
 どんな状況においても告知が正しい、正しくないとは言えない。

 つまりは使い分けが肝心ということになるわけだが、これもまた難しい。
 すでに述べた通り、人間の本音というのは自分でも分かっていないことが多々あるからだ。
 それ以前に、これは本音、とラインを引けないものもある。
 ボーダーライン上というのはあるものだ。
 それがなかったら、迷う人なんていない。

 16歳の9月にあのことがあり、「真剣10代しゃべり場」を観て、このようなことを思った。

 本音ということからは外れるが、この1件があって以来、無理はしないと決めた。
 友人から、
 「死ぬ気でがんばってみろよ。
  ぶっ倒れるまでやってみろ。
  そんな経験あるのか?」
 と言われたことがあるが、実際に死にかけてしまった。
 原因は一つではないだろうが、無理がたたったというのは大きな要因だ。

 これ以上はないというほどがんばることもいいだろう。
 努力というのは好きだ。
 だが、心身に限界以上の負担をかけるまで無理はしちゃいけないと思う。
 やってみなきゃ分からないと言う人もいるだろうが、それで取り返しのつかないことになるかもしれない。

 命はかけがえのない、大切なものだ。
 死ぬかもしれないほど無理をするなんてことはめったにないかもしれないが、人間は何がきっかけで死ぬか分からない。
 些細な無茶がたたることもあるし、予期せぬことで命を落とすこともある。
 だから、無理はしない。
 無理というのは、自分を苦しめる。
 命に関わる可能性があるというのなら尚更だ。

 あの経験があってよかったと思っている。
 実際に死んでいたらしゃれにならないが、こうして生きていて、本当によかった。
 学んだことがある。

 だけど、こんなことがない方が本来は幸せなのかもしれない。
 少なくとも、自分の知り合いには、死ぬかもしれないような危険な目には遭ってほしくない。

 生まれてきてよかった。
 生きていてよかった。
 生の素晴らしさを実感できる。
 今後も楽しい人生を送りたい。